三国志は、映画・ゲーム・小説・マンガと様々な分野で題材とされ、歴史上で絶大な人気を誇る時代のひとつです。
三つ巴というわかりやすい構図とキャラ立ちした武将たち、濃厚なエピソードや独特のスピード感が、多くの人を虜にする理由かもしれません。
では、桃園の誓いや赤壁の戦いなど数々の名シーンが繰り広げられていたこの時代、日本ではどのようなことが起こっていたのでしょうか。
今回は三国志と同時期の日本にスポットを当ててみたいと思います。
中国が三国時代の時、日本は戦乱の真っ只中
三国志の時代、日本は弥生時代後期に当たります。
時期的には西暦150-160年頃。中国では曹操、劉備、孫堅といった三国志第一世代といわれる人物たちが登場した頃です。日本人にも馴染みの深い人物たちですね。
弥生時代というと、農業をしながら弥生土器をこねて作っているような、のほほんとした時代を思い浮かべる人も多いかもしれません。
しかし実はこのとき、日本は空前の戦国時代。
倭国大乱という大規模な内乱時代を迎えていました。
およそ100以上にもなるクニがお互いに領地や主導権を争い、戦いが起きていたのです。
弥生時代・卑弥呼登場
日本史の教科書で一番最初に出てくる人物といえば・・・皆さんご存知の卑弥呼です。
実は卑弥呼は三国志第二世代と呼ばれる孫策や周瑜と同い年で、諸葛孔明や司馬懿とも同じ世代でした。
日本と中国の歴史上の人物が同い年と聞くと、なんだかグッと時代のイメージがしやすくなりますね!
卑弥呼は邪馬台国と言われる国家のトップで、占いによって政治を行っていました。この卑弥呼の登場によって倭国大乱は一時的に平和になったと言われています。
そして何よりも重要なのが、三国志のひとつ、魏と交流があったということです。
中国は当時東アジアの圧倒的な帝国であり、周辺国は中国に朝貢することによって権威と正当性を担保してもらっていました。
不良の先輩に対して挨拶に行ったり、仲良くしてもらうことで「俺のバックにはあの人が付いているんだぜ」と威勢をはれるようなものです。
卑弥呼もその例に漏れず、邪馬台国を魏という大国に認めてもらおうと考え、使者を送ります。
魏はそれを認め、卑弥呼に対して親魏倭王という称号と金印を授けました。
そして魏はその時の日本の様子を「魏志倭人伝」という書物に書き記したのです。
実はまだ歴史書編纂の文化がなかった日本にとって、これが当時の状況が伺える唯一の書物となっています。
そこには「日本は幾つかのクニが存在していること」「邪馬台国の場所」などが記されており、もしこの書物がなかったら当時の状況は歴史の闇に葬り去られていたのかもしれません。
卑弥呼の功績はこんなところにもあったのですね!
謎多き邪馬台国
日本の歴史を知るうえでとても重要な書物である「魏志倭人伝」。
しかし当時の日本の様子を知る術はこれしかなく、今も多くの矛盾や謎が残っています。
例えば邪馬台国の場所。これについて記述があるものの、とても曖昧なために今も邪馬台国がどこに存在していたかは日本史上の大きな謎となっています。
またそもそも邪馬台国という国家の存在が一体なんなのか、というのも謎に包まれています。
このあと古墳時代に入ると、今の天皇家につながる大和政権が日本を治めていくことになるのですが、その直前に別の大きな国が存在していたとは考えずらいですよね。
現在では倭国大乱に疲れた諸国家の連合国家のようなものだったのでは?という考えが有力視されています。
しかし本当のところは分からないというのが現状なのです。
とにかく、この時代は日本が中国の歴史上に登場するという記念的な時代でした。
海外進出が流行る
卑弥呼が活躍していたころ、日本では倭国大飢饉という大事件が発生します。
稲作を覚え、安定した生活が維持できると思った矢先、以降日本を苦しめ続けることになる最大の敵と対面することとなるのです。
その名も凶作。大規模な飢饉に襲われ、食糧難に陥ったのです。
日本人はこの状況に、なんと海外に助けを求めます。
朝鮮半島です。
当時、朝鮮半島は日本から唯一対岸が見えた国。
航海にも相当の危険が伴うわけですが、それでも助けを求めずにはいられないくらい、深刻な状況だったのでしょうね。
食糧難を克服するための航海でしたが、その航海でも多くの人が命を落としたことと思います。
「新羅本紀」という書物には、倭人が千人あまり食を求めて朝鮮半島に上陸したと記されています。
果たして彼らは食べ物にありつけたのでしょうか、、、
神功皇后による朝鮮出兵
この時代、神功皇后による朝鮮出兵も行われました。
神功皇后は仲哀天皇の妻で神の神託を受け、のちの応神天皇を身ごもりながらも遠征をしたという女丈夫です。
結果、この遠征は成功。対外戦での初勝利の瞬間でもありました。
それにしてもかつて食糧難に救いを求め訪れた場所を攻めるなんて、恩知らずと言われても仕方がないように思えてしまいますが・・・。
それとも、その際に何か嫌なことでもされたのでしょうかね?
とにかく、大陸で三国志が行われていた時代、日本では海外に向かう人が多い時代だったというわけです。
続く女帝時代
三国志の時代の終わりは弥生時代の終わりでもありました。卑弥呼の死後、平和だった情勢は再び戦乱へと向かっていきます。
そこで再度、壱与と呼ばれる女帝が誕生します。これによって再び戦乱になることは防がれました。
そして壱与もまた、魏へ使者を派遣し、しばし安定が続きます。
また神功皇后ももう一度新羅征伐を決め、朝鮮へ出兵しますが、今回は失敗に終わります。
三国志のとき日本はどんな時代で誰が活躍していたのか?まとめ
中国で三国志が繰り広げられていた時代の日本を見てきました。
弥生時代のイメージはあまりないかもしれませんが、この時代の日本は決して弥生土器を作っていただけの時代ではなかったのです。
日本史上でも最初の大きな内乱、世界の歴史に日本という存在がようやく姿を現し始めた時代、そして渡来人が日本にやってきていたのと同時に日本からも多くが海外へと向かっていた怒涛の時代でもあったのです。
それは日本という国が原初的なまとまりを見せ、海外から意識されて国際関係に参加し始めるという時代でした。
現代の感覚で歴史を捉えようとすると、時に大きな勘違いをしてしまいます。
もしかしたら国際的なんて概念がないくらい大陸との交流は柔軟な時代だったのかもしれません。
中国で三国志が繰り広げられていた頃、日本もまた大きな変化の最中にあったのです。
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