ヨーロッパ歴史

女帝エカテリーナ2世の生い立ちや壮絶な人生!史上最強の女帝をご紹介!

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北ドイツの小国から来た少女が、生粋のロシア人ではないのに女帝となり大国ロシアを築き上げた人物をご存じですか?

その名はエカテリーナ2世です。

Catherine II by J.B.Lampi (1780s, Kunsthistorisches Museum).jpg

引用:Wikipedia

彼女はロシアで最強女帝といわれ、国王のピョートル3世と結婚中に20~300人の愛人がいたともいわれています。

エカテリーナ2世がなぜロシアの血が一滴も入っていない生粋のドイツ人でありながら初めてロシア帝国となった人物になれたのでしょうか?

さらに、皇帝でもある夫をク―データーによって幽閉し、死亡した後に皇帝の座を獲得し優れた政治手腕により領土拡大ができました。

女帝として君臨するエカテリーナ2世の生涯は根性と頭脳を活かしロシア西欧化を推し進め大国ロシアを作り上げようとしました。

ロシアの歴史はエカテリーナ2世なしでは語れません!

「玉座の上の娼婦」とまで呼ばれた!

ロシア皇帝の夫ピョートル3世と恵まれない結婚生活に悩み、21人の愛人との関係を持ち、やがて政治権力の渦中に巻き込ます。多くの愛人がいたため「玉座の上の娼婦」と呼ばれました。

世界のどこをみても皇帝の座から引きずり下ろし、女帝となった人はいないと思います。当時のロシアの状況から見ても奇跡だったともいえますね。

ロシアの大国化を進めたピョートル3世はサンクトペテルブルクをロシアの都にふさわしい街に作り上げました。

ピョートル3世が当時最先端技術を用いて建設したペテルゴフ宮殿は、フランスのベルサイユ宮殿をモデルにしたものと言われています。

ロシアの世界遺産「ペテルゴフ」はバルト海を望む水の宮殿

引用:LINEトラベル

こうして、サンクトペテルブルクはロシア革命がおこるまでの1918年まで約200年間、政治、経済、文化の中心として繁栄を続けました。

日本の江戸時代のように、200年間の平和と築くことができたのもエカテリーナ2世の教育、政治の近代化のおかげかもしれないですね

エカテリーナ2世の生い立ち

エカテリーナ2世は北ドイツ(現在のポーランド)のプロイセン軍少将のクリスティアンが父親、デンマーク王家のオンデンブルク家の分家として北ドイツの領地主であるホルシュタイン家の出身ヨハンナ・エリザベートが母親の貴族の出であったのもあり、王家の血筋のある一家で育てられました。

貴族の家であったため英才教育を受け、フランス人家庭教師はエカテリーナ2世が2歳からロシアへ行くまで教育がしていたためそのおかげで、フランス語は堪能で乗馬も上手でしたが、音楽はそれほどだったそうです。

母からの教え

母親から「あなはたキレイではないから知性の力で美しくなりなさい」といわれたそうです。

母親から厳しいことを言われても、あきらめない根性と知性のおかげで女帝になっても国をまとめることができたかもしれないですね。

それほどの美貌ではなかったが生まれ持った優れた頭脳や知性を活かして美しい女性となる努力を重ねていきました。

母親の兄弟であったエカテリーナ2世はロシアに到着するとロシア人に好かれるようキリスト教からロシア正教に改宗し、改名しました。

ロシア語の勉強に励み、持ち前の賢さを活かし権力者の心を鷲掴み、ロシア女帝エリザヴェータへの謁見を果たしました。Carle Vanloo, Portrait de l’impératrice Élisabeth Petrovna (1760).jpg

引用:wikipedia

本来であれば、家柄から大国の后妃候補に挙がる身分ではありませんでしたが、エカテリーナ2世の母の兄であるカール・アウグストがロシア女帝エリザヴェータの元婚約者だった縁もあり、エリザヴェータの甥であった次期皇帝のピョートルと結婚できました。

当時のロシアを支配する女帝のエリザヴェータの決断により次期王位継承のピョートル3世の后候補になれました。

Coronation portrait of Peter III of Russia -1761.JPG

引用:wikipedia

エカテリーナ2世の努力も実り、后の候補までなれたのは人の心を鷲掴むことができる器用さが後の人生を助けたのかもしれないですね!

実はルイ15世との婚約の話も・・・

ちなみにエカテリーナ2世にはフランスのルイ15世との結婚話も持ち込まれました。

Louis XV France by Louis-Michel van Loo 002.jpg

引用:wikipedia

フランスに送られるエカテリーナ2世の肖像画に添えた手紙には、『エカテリーナ皇女は快活でご利発、百合のような肌と薔薇のような艶やかな微笑みをお持ちです』と書いてありました。しかしフランス側から拒否をされました

英才フランス教育の努力みのらず

フランスにしてみれば、つい最近まで熊が首都を徘徊するような野蛮な国と格調高いブルボン家との縁組など身の程知らずも甚だしいということでした。

エカテリーナ2世の母エカチェリーナは可哀想なエカテリーナ2世のためにエカテリーナ2世自身をロシアの次期皇帝の后にすることを決意しました。 

フランスに嫁いでいたら、今とは違う世界地図を見ることができたかもしれないですね。

皇帝との結婚生活は? 

エカテリーナ2世自身は、ロシアに来るまでは何も知らない状態だったのでロシアという国に溶け込む努力を惜しまず、勉強しすぎて体を壊したとまで言われています。

これで国民から「旦那より奥さんのほうがロシアの主にふさわしい」と思われはじめました。

ピョートル自身もドイツ生まれで日常会話はドイツ語で、なかなかロシアになじまず、ドイツ風の生活を続けていたため、エカリーナとあまり仲がうまくいっていませんでした。

苦痛の結婚生活にオアシスを求めて…

結婚からそう時間が経たないうちにお互い愛人を作っています。

それから愛人へと愛情が移っていきました。

ピョートル3世の体の問題で子供が出来なかったともいわれています、治療しても夫婦関係が改善することはなかったそうです。

全くの正反対の性格の上で結婚生活を続けるのも、苦痛である上でも離婚しなかったのは、このままであれば世継ぎができないと危惧し、エカテリーナ2世の気持ちは、ロシアは私が引っ張っていくという責任も感じていたかもしれないですね

エカテリーナ2世に愛された愛人達

エカテリーナ2世がその生涯の間に少なくとも20人から300人の愛人、寵臣を持っていたともいわれています。

その中でも、7人を紹介していきます。

1人目 セルゲイ・サルトゥコフ

社交的で陽気でハンサムだったセルゲイは第一の愛人となります。

S.V. Saltykov.jpg

引用:Wikipedia

エカテリーナ2世が妊娠していた時にピョートルは「私の妻は妊娠している。どうやってかは神のみぞ知る。自分の子かどうか分からないし、自分の子として受け入れるべきかどうかも分からない」と日記に残しています。

実は女帝のエリザヴェータも19歳のセルゲイ・サルトィコフとの関係を持つように勧めました。誰の子でもいいから世継ぎを欲しがっていたからです。

姑から怒られることなくむしろ愛人関係をめられ、ロシア王室の大胆さには大奥もびっくりしますね。

エカテリーナ2世の子、パーヴェル1世は生後間もなくエリザベータに養育権を取られてしまったため、エカテリーナ2世との仲はかなり悪かった模様でした。

やっとできた子供を引き離されて、ヒステリックにならなかったのも、愛人のおかげかもしれないですね。

2人目のスタニスワフ・ポニャトフスキ

ポーランド最後の王で愛人だった彼は、ロシアに肩入れするほど宮廷の陰謀に巻き込まれ自身の国を滅亡させるほどでした。August Poniatowski.jpg

引用:Wikipedia

彼は生涯独身を貫いたのは彼女への愛ゆえだったともいわれています。

エカテリーナ2世はこのハンサムで有能な若いポーランド王23歳のスタニスワフ・ポニャトフスキに入れ込み、他の愛人たちをすべて捨ててしまうほどだったそうです。

スタニスワフとエカチェリーナとの間には娘のアンナが生まれ、スタニスワフは1759年、ロシア宮廷の陰謀事件に巻き込まれて帰国せざるを得なくなりました。

ポーランドは何度もロシア、ドイツからの侵攻があり、彼自身は何度も自分の領土を取り戻す改革をつぶされ、最後には愛する祖国を滅ぼされました。

エカテリーナ2世にとっては、領土拡大に好都合であったと思います、愛人によって滅ぼされる国王は何ともかわいそう。

3人目 グリゴリー・オルロフ

彼は4人兄弟で皆、ハンサムで屈強でした。特に愛情を注がれてエカテリーナを女帝として即位させたクーデタでは、グリゴーリイオルロフ兄弟が中心的な役割を果たしました。

引用:Wikipedia

その褒賞として、兄弟全員が伯爵の称号を与えられました。

しかし1772年頃、オルロフが女官をつまみ食いして事実が発覚し、エカテリーナ2世から離縁され宮廷から追い出されました。

クーデターを成功させた一人でも、愛人が愛人をつくるのはご法度だんたんですね・・・

4人目 アレクサンドル・ヴァシーリチコフ

1772年頃、グリゴーリイ・オルロフがお払い箱となった後釜として、エカテリーナ2世の4人目の愛人となります。

引用:Wikipedia

しかし早くも1774年には、グリゴーリイ・ポテョームキンにポジションを後退させられます。

アレクサンドル・ヴァシーリチコフは悪くもなく、よくもなく、特に影響を与えずで政治にも口出しをしませんでした。

優しいだけでは物足りない

エカテリーナ2世にとっては「この上なく退屈な人」でといわれ、彼女の期待する知性などからお払い箱になったともいわれています。

期待通りの働きや知性がないと満足できないエカテリーナ2世を喜ばせるのはただの優しさだけではダメなんですね。エカテリーナ2世の心を満たすことできるのは知性があって屈強で期待通りの成功を収める男のみ・・・

しかし、エカテリーナ2世からは十分に暮らせるような年金を与えられ、余生はモスクワで過ごし、その後結婚もしなかったそうです。

5人目グリゴーリイ・ポテョームキン

エカテリーナ2世の生涯唯一の真実の夫というべき男性だったともいわれてます。

政治軍事ともに優れている男性ともいわれていました。

Princepotemkin.jpg

引用:Wikipedia

軍事参事会副議長となり、伯の称号を与えられました。クリム・ハーン国や西ウクライナを併合し、バルカン半島への拡大をしていきました。

15年にわたりロシアの拡大化の総督として帝国最強の陸軍と海軍を確立させました。

グリゴリーとの間の息子アレクセイがまだお腹の中にいたとき、エカテリーナ2世は夫に妊娠を隠すために四苦八苦していました、いかにバレずに出産するかはさらに大きな問題でした。

妊娠をよく出産まで隠し通せるのはよほど夫婦での接点がなかったんですかね?

皇帝の趣味で事なきを得る

エカテリーナ2世の腹心ワシリー・シュクリンは解決策をひねり出しました。

彼は、ピョートル3世が火事で燃える家を眺めるのが大好きなことを知っていたので、自分のサンクトペテルブルクの邸宅に火をつけました。

皇帝が火事見物のために宮殿からすっ飛んでいった後で、エカテリーナ2世は無事出産。赤ん坊はシュクリンの世話に委ねられ、後にボブリンスキー伯爵家の祖となります。

火事の野次馬している間に出産する荒業はにも驚きですが、自分の家を犠牲にしてまでも任務遂行を成し遂げるのはロイヤリティの鏡ですね

6人目 ピョートル・ザヴァドフスキ

なんと、わずか数ヶ月でお払い箱でした。愛人としての期間がアレクサンドルより最も短かった人物です。

引用:Wikipedia

しかし功績はアレクサンドルより上だったみたいです。エカテリーナ2世の愛人としては珍しく政治的な役割を果たしたともいわれています。

彼が愛人であった時期はちょうどプガチョーフの乱の直後でした。側近として活躍し、あらゆる勅令を準備したと言われる能吏です。

元愛人の愛人の為に尽くす

愛人ポジションをお払い箱となった後も、アレクサンドル・ベズボロードコに引き立てられて宮廷で活動し、さらにはエカテリーナ2世自身この元愛人のキャリアを後押し。

エカテリーナは別れた元愛人たちの面倒をよく看たそうです。その意味では最高の愛人でした。

彼自身もその後、キャリアを重ねていき、最後には教育大臣として名をはせることになりました。

元愛人達の面倒を見ることができる聖人みたいな人ですね。彼らにとってはエカテリーナ2世の愛人になるのがキャリアを重ねる登竜門なのかもしれません。

7人目のセミョーン・ゾーリチ

若くて、有能な軍人でありましたが、すぐにお払い箱となりました。

Zorich Semyon Gavrilovich.jpg

 

引用:Wikipedia

セミョーンは軍人として優れていました、戦の功績を称えエカテリーナ2世はセミョーン少将に推薦し、それからエカテリーナ2世から溺愛されて、東ベラルーシに膨大な所領をもらいました。金銭問題が原因で浪費が重なりお払い箱に、、、ギャンブル狂だったようです。

どんなに優れていてもギャンブルで国のお金を浪費されてしまってはたまりませんよね

女帝愛人がクーデターでロシア皇帝を打倒を計画

3人目の愛人を作ったときには、ーデターを計画しました。

引用:history.wikireading

女帝エリザヴェータが急死してピョートル3世が即位しても、周囲の貴族階級の人間からは支持を得られることはありませんでした

ピョートル3世はプロイセンとの戦争で勝利目前に和睦。占領地を返却し賠償金も要求しなかったため国内で不満が爆発しました。

なぜなら敵国のフリードリヒ2世はピョートル3世にとっては憧れの人でそんな人には攻撃できないとして、和睦したとのことです。

戦争中であれば、さすがに憧れのの人でも勝手に和睦したりとかはないだろうっと側近たちは思っていたに違いないし、賠償金も要求しないとなると無駄骨だったことから見放されたかもしれないですね。

侮辱した代償は意外と大きかった・・

即位から半年後の1762年、6月28日公開の席上でピョートル3世から「バカ」呼ばわりされたエカチェリーナ2世はクーデタを決意し

近衛軍は国民から人気のあるエカテリーナ2世に忠誠を誓い、ピョートル3世は廃位させました。

幽閉された後、捕らえられたピョートル3世は8日後に突然病死

そんな皇帝の死因を発表したのはエカテリーナ2世でした。死因は持病の痔が悪化したというもの。痔が悪化して死亡することなど信じていませんでした。

公の前で、侮辱されるのは腹立たしいのはわかりますが、まさかクーデターされるとは思ってもなかったと思います。

夫の葬式

夫婦は不仲でしたが、結婚していたのだからせめてもの葬儀に出席して・・・

そもそもエカテリーナ2世はピョートル3世の葬儀に出ませんでした。そして33歳のエカテリーナが女帝として即位しました。

ピョートルの死亡の原因として妻エカテリーナの指示、あるいは少なくとも承認を受けて、暗殺されたともいわれています。

ピョートル3世自身もまさか自分の葬式ぐらいは出てくれると思っていたかもしれないですね。ついに女帝になったエカテリーナにとっては何とも感じなかった出来事かもしれません。

ついに女帝エカテリーナ2世の誕生

そして「すべての臣民らの明確かつ誠心からの要望」に基づき、エカテリーナ2世は自ら女帝として即位しました。

暗殺犯からの手紙

暗殺犯がエカテリーナ2世に送った手紙には、ピョートル3世の死に関わった懺悔が書かれています。その暗殺犯とはアレクセイ・オルロフ。エカテリーナの愛人グリゴリー・オルロフの弟です。

実はアレクセイ・オルロフはクーデターで拘束されたピョートル3世の護衛の一人で、幽閉中のピョートル3世に近づける数少ない人物でした。オルロフ兄弟の計らいで女帝になれたエカテリーナ2世はロシアに嫁いで17年、ついに大帝国ロシアをその手中におさめました。

反ピョートル派の貴族と近衛部隊と結んで皇帝即位を宣言、ピョートルには退位を迫りました。臆病なピョートルは泣く泣く同意し、退位したそうです。

ここまでくればエカテリーナ2世には敵なしって感じで国民のビックスターになり、国民のは彼女に従えばロシアも幸せになると信じますよね。

幼少期からの近代的な知識で近代ロシアに変身!

白馬にまたがりロシアの近衛連隊の制服に身を包み軍の先頭に立ったエカチェリーナ2世は、「ドイツ女」というハンディにもかかわらず、国民の支持を受けました。

また皇帝としても国家財政の再建に努め、「大帝」と言われるようになった。若くして即位した女帝はすぐにあらゆる権力を自分のもとに集中させ、元老院の立法権を縮小し、教会や農民から土地を取り上げ、彼らから経済力を奪いました。

自分の政策に邪魔が入らないように、用意周到に固めることもできたのも愛人たちのおかげかもしれません。

大国ロシアに大成長

エカリーナ2世が女帝になってからはロシア帝国領土の拡張に努め、南下政策を具体化して1768年にロシア・トルコ戦争を開始し、1774年にキュチュク=カイナルジャ条約でクリム=ハン国の保護権を獲得、次いで1783年にはリム=ハン国を併合し、クリミア半島を領有にしました。

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引用:ぴーぶろぐ

また西側では1772年に第1回ポーランド分割に加わり、領土の拡張を図りました。ポーランドは3回の割譲で地図から姿を消しました。

破竹の勢いで拡大するロシアの領土で反乱がおこらなかったのも、エカテリーナ2世の根回しの良さでもあるんですかね?

領土だけじゃない、国内も社会福祉も大成長

フランスの哲学者のヴォルテールやディドロらの哲学者と親交もあり、啓蒙専制君主として、教育の振興、文芸の保護、社会制度の近代化に取り組んだ一面もあります。

その一方、ロシアトルコ戦争やポーランド分割で広大な領土を獲得。黒海沿岸やクリミア半島を手中に収め、南下政策の道筋をつけるなど、「大国ロシア」の存在を決定づけました。

国民のための教育や文化の保護などに努め、ついに愛人の国までをも掌握してしまう手際の良さは今の時代でもなかなかいない逸材だと思います。

日本にも拡大を目指す、エカテリーナ2世

また日本人漂流民大黒屋光太夫を送還するため1792年にラクスマンを根室に派遣、江戸幕府に開国を迫ったのもエカテリーナでした。

引用:Wikipedia

当時ロシアの人口の大部分を占めていた農民はエカテリーナ2世時代、すべての自由を失いました。この時代、領主たちは農民を強制労働に送ることが許され、農民たちはそれに対して不満を口にすることも許されませんでした。

エカテリーナ2世の進めてきた教育は、貴族中心の教育であって、農民は野放しされていたんですね。

農民7万人が女帝に反抗

農奴たちに権利がない状態は1770年代の農民反乱へと繋がり、その最大規模のものとなったのが、エメリヤン・プガチョフの乱でした。

ピョートル3世はまだ生きていた!?

この乱の首謀者のエメリヤンは自分が皇帝ピョートル3世であると宣言していました。

引用:Wikipedia

しかし、その時には実際のピョートル3世は死亡しており、この人物が帝位についたあかつきには彼らに自由、福祉、繁栄を約束すると宣伝して、7万人にのぼる巨大な軍隊を集めました、しかしそれらはすべてエカテリーナ2世の軍に鎮圧されました。

多くの国民は当時リアルタイムで皇帝がなくなったのは、知らないしても自由と福祉を約束されたら賛同してしまいますよね

個人コレクターの収集が美術館

世界有数の美術館のひとつとされるエルミタージュ美術館に収められている絵画、グラフィック、彫刻などの立派なコレクションが生まれたのはほかでもないエカテリーナ2世の時代です。

Hemitage-exterior.jpg

引用:Wikipedia

ペテルブルグには、優れたヨーロッパの建築家が招かれ、素晴らしい宮殿や教会が建てられました。

ロシア初の女子学校開設

またエカテリーナの時代に、教育システムが確立され、ロシアで初めての女子のための学校スモーリヌィ女学院が設立されました。

貴婦人の教育にも尽力、もちろん美術品なども多数収集しました。エカテリーナ自身も、42歳から書き始めた回想録、ヴォルテールから愛人ポチョムキンまでとの往復書簡、童話、戯曲などの文芸作品を残しています。

美術品収集するのに巨大な宮殿のような建物を建てたのも、後世に伝えるために建築したとおもいますが、少しフランスに対抗する為でもあったかもしれませんね。

孫息子は私のもの!

エカテリーナ2世は息子パーヴェルにドイツから妃を迎え、孫息子が生まれるとすぐに取り上げて自分で育てました。

エカテリーナは義理の叔母エリザヴェータにされたことと同じことをしたのですが、孫息子のアレクサンドルはお気に入りで、パーヴェルを廃嫡してアレクサンドルに跡を継がせるつもりであったようです。

自分が育てることができなかったという執着心から、孫息子を取り上げたのでしょうか?

婚約破綻で女帝倒れる

また、パーヴェルの孫娘アレクサンドラをスウェーデン国王と結婚させるべくスウェーデン国王グスタフ・アドルフを招待、ふたりは恋愛感情を持ちましたが、

婚約式の直前になってアレクサンドラのルター派への改宗が出来ないことが分かり、スウェーデン国王が激怒、婚約が見送られたことでエカテリーナは体調を崩したのでした

あくまでもロシアの安泰と王朝の継承のためにやってきたことが泡となった衝撃が強すぎて、計画が狂ってしまう恐怖から体調を崩したかもしれません。

トイレに行かなければ・・・

また息子パーヴェル大公に見切りをつけて、孫のアレクサンドルを後継ぎにしようと書類を作成したといわれています。

それを実行する前にトイレで用を足していました。なかなか帰ってこないエカテリーナ2世を心配した側近がトイレに確認したところ、脳梗塞で倒れて亡くなっていました

トイレに行く前に、用をすましてから、用を足せばよかったのに、残念。

女帝エカテリーナ2世の生い立ちや壮絶な人生!史上最強の女帝をご紹介!まとめ

皇室に嫁いでいながら、愛人を作れる環境はここ以外ないと思います。愛人が多いことで不名誉なことを言われることが多いですが、エカテリーナ2世の想いが決まったら徹底的に突き通すことができたからこそ大国ロシアに成長できたかもしれないですね。

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